和寧文化社ものがたり 


◇須田剋太について

島岡達三について

 

和寧文化社ものがたり

 1、庶民と芸術の出逢いの場

 3、詩のような縄文象嵌

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和寧文化社ものがたり その2

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    民藝と私

            丁章

 

 私にとって民藝とは、生い立ちそのものだと言えます。

 私が物心ついた頃には、もうすでに民藝の世界に取り囲まれていました。両親が熱心な民藝ファンで、家中すべてが民藝品で整えられていたからです。

 とくに両親は、島岡達三先生の陶器と、松本民藝家具の蒐集に力を入れておりました。その蒐集は趣味の域を越え、「将来、美術館を造りたい」という夢にまでなり、いつしか家族の生活が、そのまま同時に民藝の蒐集であるといった様相を呈するようになってゆきました。両親が想い描いていた「美術館」とは、おそらく「民藝館」のようなものであったのだと思います。

 東京目黒での生活を追われた両親が、東大阪で始めた飲食店(おこのみやき店)の成功により、その蒐集にはさらなる拍車がかかるようになりました。店で得た利益のそのほとんどすべて(というわけでもなかったのでしょうが、幼い私にはそのように見えました)を蒐集のためにつぎ込む両親を端で見ながら、私は幼心に恨めしく思ったことも多々ありました。なぜなら、子供が欲しがる物を何ひとつ買って与えてくれなかったからです。

 たとえば、小学生の頃の私の学習机は、松本民藝家具のビューロでしたが、当時どの級友たちの家に行っても、学習机は必ずと言っていいほど、今で言うところの「アニメのキャラクター物」のスチール机でした。子供心にはそれが無性にうらやましくて、自分にも買って欲しいとねだったりもしたものですが、そういうときには両親は決まって、

「そんな値打ちの無い物は買わない」

 そのように言って私の望みを強くしりぞけたものでした。そのときの不満は、私が二児の父親になった今でも、私の心にこびりついたまま離れることはありません。しかしながら、いま私が曲がりなりにも「物の見方」というものを心得るようになったのは、両親のこのような「しつけ」によるものであったということは、どうやら否めない事実のようです。

 私と民藝の関係は、このようになかなか複雑な経緯を辿るものですが、さりとて喜びや愉しみもまた、決して少なくはありませんでした。

 これも私が小学生の頃、梅田の阪急百貨店で開かれた島岡先生の個展での話です。これまで両親が蒐集してきた島岡作品のそのほとんどが「展覧会」で買い求めた品ですが、その日も両親は島岡先生の個展の初日に阪急に出掛けてゆく予定にしておりました。あいにく朝から台風で、そのため小学校は休校となり、それならばということで、大嵐の中、家族揃って阪急に出掛けてゆくことになったのです。

 そして開店の三十分前には百貨店の入口前で、私たち家族は扉が開くのを待っておりました。途中の車の中で両親は、私と一歳年下の弟に向かって、開店したら他のお客さんとの競争だから、美術画廊に走っていって、一番に着いたら、作品の値札を一通り全部取りなさい、との命令を下しておりました。両親は、展覧会で自分たちの気に入った作品を確実に手に入れるために、普段から会場には必ず一番乗りするように心懸けておりましたが、つまり、会場まで駆け上がるのは子供の足の方が速いだろうからということで、そのような話になったわけです。ただ、自分たちが欲しいものを息子たちはわからないだろうから、値札だけを取らせておけば、あとから欲しい品を選んだのち、買わない品の値札は元に戻せばいいという計画だったのです。

 むろん両親は冗談のつもりだったのでしょうが、私と弟は張り切って開店と同時に(本当はいけないことですが)エスカレーターを駆け上がり、見事、会場一番乗りを果たしました。しかしながら、いくら子供といえども、さすがに値札を取ることは恥ずかしくてできなかったと記憶しています。

 最近になってこの時のことが、阪急百貨店の美術部で語り草になっているということを知りました。島岡先生の個展に、なんと小学生が一番で駆け込んできた、と。私にとっても実に愉快な想い出のひとつです。

 そのような生活をつづけてゆくうちに、いつしか両親は、島岡達三作品の蒐集家として世に知られるようになってゆきました。両親と共に生活し、協力してきた私にとっても、それは当然、誇らしいことでありました。島岡先生が初めて私たちの家を訪問されたとき、「ああ、この作品はここに来てたのか」といって喜んで下さったことなど、子供心にもたいへん嬉しかったものです。

 そしてとうとう両親は、私が大学に入った年に、念願の夢を果たすことになりました。島岡達三作品と松本民藝家具による「喫茶美術館」という名の民藝世界を造り上げたのです。

 夢が叶った当時、両親は有頂天なほどに喜んでおりました。また、その喫茶店を手伝いながら大学に通っていた私も、当然、喜ぶべきであっただろうし、実際、誇らしげな気持ちが微塵も無かったと言えば嘘になります。しかしその頃になると、両親のその夢のための生活の裏側で、ずっとなおざりにされたままひずみつづけてきた私たち家族のもうひとつの在るべき生活の姿が、私の心の中でとうとうこらえきれずに悲鳴を上げはじめていたのでした。

 私の民族意識は、幼少の頃からそれほど発育の良いものではありませんでしたが、それでも成人を迎えようとする頃になるとさすがに、これまでの自分の生き様について、強く疑問を抱くようになりました。

 両親は、旧日本帝国の民族抹殺政策であった「創氏改名」による日本名を当然のように使いつづけていましたし、日本社会での民族差別を怖れて、出自をひたすら隠してもいました。自民族の文化について何ひとつ知ろうとせず、私たち子供に対しても、ハングルの一字を教えてくれることもありませんでした。

 そのような両親に育てられた私ですが、大学というひとつの自由空間において開放された自らの民族意識が、心の中ではっきりとしてゆくにつれ、いかに自分がこれまで日本的にしか生きていなかったかということを思い知らされ、愕然としたのです。そしてその反動として、私は自分の日本的な生き様を否定しようと努めはじめました。

 そうなると私にとって民藝は、疎ましいもの以外の何ものでもなくなってしまったのです。当時の私は「民藝」についてまだ何も知らず、民藝とは「日本の伝統工芸」程度の認識しか持ち合わせていませんでした。そしてそのような民藝によって彩られた生活が私にはわずらわしくて我慢ならなくなり、とうとう家を飛び出し、そのまま寄りつかなくなってしまいました。

 家を出た私は、自分に在るべきだったはずのもうひとつの生活を手に入れるため、かねてから志していた文士の道を歩みはじめました。

 大学では講義よりも図書館に籠もりきりで、朝鮮にかかわるありとあらゆる書物を読みあさりました。すると、やはり必然的に「柳宗悦」の名と出くわすことになります。『失はれんとする一朝鮮建築のために』をはじめとする柳氏の数々の文章を読み進めてゆくうちに、「民藝」の思想が、どれほど朝鮮と深いかかわりを持つものであるかを、私は初めて認識することになりました。そして「民藝」に対する私の再発見が、自らの生い立ちについて苦しんでいた私自身を、その苦悩から救ってくれたのです。

 昨今出版された鶴見俊輔氏の『柳宗悦』(平凡社ライブラリー)は、「柳宗悦」を再評価しようとする者にとって決して欠かすことのできない参考文献ですが、その中で鶴見氏は、旧日本帝国時代に柳氏が「民藝」を興したことのその意義について、次のように述べておられます。

 

 

はじめ李朝の陶器にひかれた柳は、これらの作品が無名の工人によってつくられたことを考え、日本にも同じような工芸の伝統があることに気づいた。こうして一九二六年一月には日本民藝美術館設立の計画をたて、四月に入って「日本民藝美術館設立の趣旨」を発表した。

柳の民藝運動は朝鮮の陶器への開眼にはじまるものであって、その底には、朝鮮文化と日本文化を結びつける、当時としては独特のインタナショナリズムがあった。   (同前)

 

柳の考えでは、日本人が虚心に日本についてしらべるならば、日本の宝物と言われているものの多くが実は朝鮮人の作であることを知るであろうし、日本は文化の成立を朝鮮に負うことを認めるだろう。これほど恩をうけたのに対して、今日本は朝鮮の文化を破壊することをもってむくいている。このように考えてゆく時、柳は、自分個人の責任をこえて、民族の責任という宗教的理念に達する。       (同前)

 

 

 鶴見氏がこのように述べる柳氏の朝鮮に対する心について、もしあのまま私が何も知らずにいたとしたなら、今も私は「民藝」を愛せぬまま、自らの生い立ちを強く憎みつづけていたでしょうし、そのまま極度の反日主義者にすらなっていたかも知れません。

 人間にとって出自を自ら受け入れられないことほど不幸なことはありません。私はこのように自らの生い立ちでもある「民藝」を再発見することにより、一度は憎んだ自らの家を再発見し、そして両親の夢のために送ったあの生活をも、新たな気持ちで受け入れることができたのでした。

 現在私は、物書きの仕事と共に、両親から引き継いだそれらの店を切り盛りしています。両親はあいもかわらず、民族的自覚の乏しい生活を今も送っておりますが、そのような両親がそれほどまでに民藝に惹きつけられたその理由を考えたとき、私はふと、次のような実にたわいのない妄想を抱いたりもします。もしかすると、両親の中にあるはずの抑圧された民族性が、民藝の底にある「朝鮮」を、無意識に求めたからなのではないのか、と。

 いずれにせよ、こうして新たに再発見した「民藝」によって彩られるこの生活を、私が日々守りつづけ、さらにはより豊かにしてゆくことこそが、柳氏に対する私にとっての、ささやかな恩返しであることに、ちがいはないだろうと思っております。

    (チョン・ヂャン 詩人、和寧文化社代表)

          

     丁章著『サラムの在りか』(新幹社)所収

 

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