和寧文化社ものがたり 


◇須田剋太について

島岡達三について

和寧文化社ものがたり

 1、庶民と芸術の出逢いの場

 2、民藝と私 丁章著

 4、ラムネ色・琉球ガラス

 

 

須田剋太・島岡達三 美術館

新星館(北海道美瑛町)

喫茶美術館の姉妹館です











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和寧文化社ものがたり その3

島岡達三 縄文象嵌塩釉壺

  詩のような縄文象嵌

             

            丁章

 

 私の両親が、島岡達三先生の作品に心を奪われ、それ以来、蒐集を始めてからもう三十数年になろうかとおもいます。

 家族一丸となって集めたせいか、所蔵品の総数は、一時期六百点近くにまでなり、家中のどこもかしこもが、作品の飾り場となりました。

 たとえば、和室八畳の床一面に、大小の壺や皿など五十点ほどの作品が所狭しと並んでいる光景は、圧巻といえば確かにその通りではありましたが、それは別の見方をすれば、私たち家族の生活の場が、島岡先生の作品によって占領されてしまっているということでもあり、そのような状況で日々の暮らしを送っていると、実に複雑な想いをおのずと強いられもするものでした。

 のちに、八畳床一面のその作品たちは、関西では決して起こらないと誰もが妄信していた大地震によって、それらのうちの十数点が傷物となってしまいました。ただ、別の飾り棚の徳利やぐい呑み、抹茶碗類がほぼ壊滅的だったのに比べれば、床に並べてあったことが、それでも不幸中の幸いであったのかも知れません。あの阪神淡路の大地震は明け方に起こりましたが、無残に砕け散った作品たちを前に、取り乱した父が慌てて島岡先生に電話をかけ、悲愴な声で「先生、割れてしまいました」と謝罪していたことを、今でも私は鮮烈に覚えています。結局、百点ちかくの作品が傷物となるか、あるいはその形を失いました。

 あの大震災によって、家屋や家族の命までをも失った多くの方々に比べれば、我が家の被害は取るに足らないものにちがいありません。ですからこのようなことを述べるのは実に心苦しい想いもするのですが、それでも二十数年間、家族一丸となってあれほど苦労して集めた作品たちであり、また、島岡先生の陶歴の上でも貴重な作品の数々を守れなかったということで、私はあの被害によって相当大きな喪失感に、さいなまれたものなのです。

 両親はその後まもなくして、新たな美術館建設のために躍起となって走り出すことになるのですが、そのように二人を走らせることになった要因の一つが、大震災によって被ったあの喪失感であったはずなのでした。むろん、かねてから私設美術館の建設を人生の目標にしていた二人でありますから、それがすべての理由というわけでは決してありません。ただ、多くの作品を失ったからこそ、胸の底から芽生えたその責任感のような想いが、すでに東大阪で営んでいた美術館兼飲食店の経営を放り出してまでしても、本格的な美術館を建設しようとする、そのような想いに結びついていったのだと私はおもいます。

 私はと言うと、新たな美術館建設には反対でした。どう考えても、父の言う計画に無茶があったからです。それよりもこれまで以上に東大阪での事業を充実させるべきだと私は訴えましたが、父は現実よりも夢を追いかけるのが好きな、とてつもなく強引な男です。父と私は意見が分かれたまま、私は東大阪の家業を「和寧文化社」として引き継ぎ、両親は新たな夢を追って、全国をさまようことになりました。

 それからの数年間、実に多くの方々の支援を得た両親は、また、実に様々な方々に多大な迷惑を掛けつつ、途中、父の暴走に付いてゆけなくなった母が東大阪に舞い戻るなどの紆余曲折を経ながら、とうとう北海道上川郡美瑛町の美しい丘の上に、新たな美術館「新星館」を完成させ、ようやく自らの落ち着き場所を、父は手に入れることができたのです。

 父の新たな夢はこうしてかないました。新星館は幸いなことに、各種マスコミにもユニークな私設美術館として取り上げられ、全国から訪れる観光客や、地元の方々からもとても好評だと聞いております。

 跡継ぎの私としては、さらにまた新たに大きな責任を負うことになったわけですが、少しでもより多くの人々に島岡先生の作品を観て愛してもらえることこそが、私たち家族の苦悩に満ちた蒐集への、ありがたい報酬であるのですから、父のこの新星館が、そのように多くの人々に愛されるということは、私にとっても当然喜ばしいことにほかなりません。

 それにしても、と私はかねてからずっと考えてきました。なぜ父はこれほどまでにして、島岡先生の作品ばかりを集めてきたのかということをです。そしてその不思議な問いを解く鍵が、もしかすると「縄文象嵌」にあるのではないのかという、ひとつの仮説を想い描くようになりました。

 縄文象嵌とは、もうすでに言わずと知れたことですが、島岡先生が独自に創造された陶芸技法のことです。この技法の創始者として、島岡先生は一九九六年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。古代の日本列島において盛んに作られた縄文土器の技法と、中世の朝鮮半島において高麗青磁や李朝鮮三島手(粉青沙器)として華ひらいた象嵌の技法。この二つの技法を組み合わせることによって生み出された、まったく新たな技法なのです。

 この縄文象嵌は、師である濱田庄司氏から「早く自分のものをつくり出しなさい」と日々催促されていた島岡先生が、苦悩の末にふとおもいつかれた技法であるという話は、あまりにも有名です。そして、縄文象嵌誕生のこの逸話が、私にはひとつの詩におもえてならないのです。

 父親が組紐師であるという出自を持つ島岡先生が、以前に生活のため習得された古代日本土器の技法である縄文と、ご自身がもともとお好きだった李朝鮮三島手の技法である象嵌との、その二つの技法の組み合わせをおもいつき、そしてまったく新たな美を生み出したというその物語の中に、かつて朝鮮を心の底に想いながら、まったく新たな「民藝」という美をおもいつかれた柳宗悦氏の心の系譜を、私は秘かに汲み取ってしまうのです。

 日本と朝鮮の組み合わせによるまったく新たな存在。それは私たち「在日サラ」の存在そのものでもあります。

 私の父は、もっぱら自民族性を喪失したままの、民族的には決して誇れぬ無自覚な男です。しかしながら、だからこそ、民藝の心の系譜に基づかれた島岡先生のおもいつきによる縄文象嵌に、父はあれほど心を奪われたのではないか。つまり、日本と朝鮮の組み合わせによるその縄文象嵌を、日本と朝鮮を組み合わせた存在である在日サラムとして、父は無意識ながらも、まるで自分の化身を追い求めるかのように、あれほどまで島岡先生の作品を買い求めたのではないのか、と。私はそのような物語を、この胸に抱いております。

 むろん、島岡先生のおもいつきや、父の蒐集熱も、すべて単なる偶然のたまものであるのかも知れません。

 しかし、この世の偶然の事象から、何らかの意味や意義を汲み取ろうとすることが、言葉をつむいでいる者たちの自然な性(さが)であろうかと、詩人である私はそのように弁明するほかありません。

 ともあれ、朝鮮と日本を組み合わせた存在である「在日サラム」を生きてゆく私にとって、島岡先生の「縄文象嵌」とは、まるで自らの存在をたとえているような、愛すべきひとつの詩として、これからも私の心の中に在りつづけてゆくのだろうとおもうのです。

    (チョン・ヂャン 詩人、和寧文化社代表)

          

 丁章著『サラムの在りか』(新幹社2009年刊)所収

 

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